昭和49年08月07日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな。」

 絶望感と申しますか。「もう、駄目だ」とか、「もう、自分はおかげは頂ききらん」という、そういう考えが、神の綱を切ったと同様なことになってくる。それは先ず神様を信ずると言う事だと思うのですけれども。神様をどういう風に信ずるかと。自分の願いが成就すると言う事。自分の思いが思い通りにならぬと言うて、落胆をしたり絶望感に襲われるようなことではならん。
 自分の願いという小さな見地から、大きな神様の願いが自分の上に成就するという信じ方。そういう神様を頂いて、そういう神様を信じるところから、絶望感と言った様なものは、微塵にも起こってこない。いやむしろそういう時になれば成程、いわゆるファイトが湧いて来る。底力と言うかいよいよ、却って力が湧いて来ると言う様な信心を頂かなければならん。例えば私は引き揚げて帰った当時、いわゆる日本の国全体が難儀の真っ只中にあったわけですから、引き揚げ者の私たちが楽なはずはありません。
 まあ様々な難儀なところを通らせて頂きましたが、他に何と言うても商売より他に術を知らないですから結局商売。商売をすると言うても、資本なしに出来る商売などというのはありませんでしたけれども。私はもう無資本で商売をさせてもろうた。それはあの当時、もう闇商売が横行しておる時分です。闇商売がもう普通のようになっておる時分です。食料は勿論、繊維類もやっぱそうでした。私は繊維類は、まあ全然知識がないのですけれども、繊維の物を扱わせて頂いた。
 もうそれこそ人の褌でお相撲を取ると言うですか、大きなお店に参りますと、やっぱその時分でもこれだけは、もう売れんと言った様な品物がある。売れ行きが悪い。だからそういう品物を探す。そすと問屋の方でも貸してくれもするし、融通もしてくれるし。またならいっちょ、どうでんこんでん売ってくれと言うて、頼まれると言った様な事もある。ですから、そういう品物を扱った。して段々おかげを頂くようになって、いわゆる闇の品物を仕入れては、またさばくと言った様な商売でしたが。
 もう本当に置いた物を取ると言う事はこんな事だろうかと言う様な、その順調さというか。もう大変におかげを頂きました。私は月々従業員の方に支払いを、給料を支払いますと、最少限度の自分の生活費を頂いて、後は残りの全部はお供えでした。神様は例えば資本はなくても、商売はさせて下さるという意味の、例えば無から有が生じる程しのおかげを下さることの出けるのが、神様だという信念は、その当時に生まれたと思うです。それはもう本当に、本当にもう毎日毎日が奇跡の連続でした商売の上で。
 ですからしかもそれは、無一文でそれだけのことが出けるんですから、あまり資本金などと言うはずがない。問題は、それが段々、大きくなってさえ行けば良いという信念でしたから、まあそういう今から考えてみますと、とても思い切ったことが出けたと、自分でも思います。けれどもその事によって、神様を言うなら信ずる力。言うなら本当に無から有は生ずると言う事は、こう言う事かと思うほどしのおかげを頂いて一年間。それから後というものは、今度はそれとは全然反対のことが起きてきた。
 様々な引っかかりが出けたり、言うならにっちもさっちもいかんと言う様な事になった。その時分にです、私が言うなら信心に絶望をしておったら、今日の合楽は開けてないわけです。今から思うてみると、それが本当の御神意であったと言う事です。私が商売をさせて頂いて、商売によっておかげを頂きたい、ご用もさせてもらいたいという一途なその思いを、神様は一応は受けてくださった。そしてこんなにも間違いのない働きを見せることが出ける神であると言う事も、その瞬間によう教えて下さった。
 そしてその後は私に気づかせて頂けよ、分からせてもらえよと言う様な事になってきた。言うならば商売の方は、もういよいよもう出けなくなり、商売の方ではもう皆の信用を落としてしまった。ところが神様を信ずる力だけは、いよいよ強うなって行った。これは、今に大きな商売をさせて下さるのだという風に、その今のそのための修行だという風に思うておった。ところがそうではなくて、言うなら今日の合楽のもとと思われるような働きが始まっていた、
 私の話を聞いて、人が助かるようになってきた。話を聞きに来るようになった。ですから私の信心が訳はわからんなりに、ただ信心一途と言う様な事になって来た。それから色々と神様にお知らせを頂くようになったりして参りましたら、段々神様のお心が分かるようになって来た。神様が私を言うなら、難儀な氏子の取次ぎ助かることのための働きを感ずるようになってきた。
 ですから言うなら絶望感とか、もう神の綱が切れたとかと言った様な考えが起こる筈がなかった。言うならこれはまだ信心が足りんからだと、只いよいよ打ちこんでいく、言うならば姿勢を取らせて頂いた。ですから例えば皆さんのそれは願い。痛ければ痛い、痒ければ痒いで願わなければおられんのが、私どもの実感である。だからそのために一生懸命にお参りしよりますという時代もあるのですけれども。
 その痛い痒いが、例えばおかげが頂けないならばです、これは神様の願いというか、大きな願い神様が私にかけて下さる願いというものが、これはもっと他のところにあるなと、気づかせてもらわなければならん。願い通りに願っても願っても、願い通りにならない。そいう時ほど、神様の願いが成就しておる時だとさえ教えて下さるのですから。そういう頂き方から、はあ自分だけはおかげ頂ききらん、と言った様ないわゆる神の綱を切るような弱い心は無くなって来る。
 増々不如意であれば不如意であるほど、神様にすがって行くという信心を、まあ、ここでは、修行という事ですけれども。だから小さい願い、自分の小さい願いのための信心に没頭したのでは、その願いが成就しないと、いわゆる神からは切らんと仰るけれども、氏子から切ってしまうと言う様な事になる。そういう人がどの位、合楽が始ってこの方、あるか分りません。願いが小さかったからです。
 願いをひとつ大きく持たなきゃいけません。そして私の今のことですけれども、今にして思わせてもらうとです、成程商売がそれこそ置いた物を取るように不思議なおかげを頂いたと言う事によって、神様を信ずる力が出けた。その反対に一年後には、反対のもうすべて反対の方へ、裏目裏目と出ていった。そこにはもうすでに、そこから神様の私にかけられる願いが、もう成就しておった。
 私の願いは成就しないけれども、神様の願いが成就しておった。どういう願いであったかというと、やはり難儀な氏子が取次ぎ助けられるという、いわば取次者としての、ま力を作っておって下さった時代であったという風に思うのです。先日どなたでしたでしょうか。「ざくろ」のお知らせを頂いた。謎謎に柘榴とかけて何と解くという、子供時に言いよった。障子一重に小僧千人と言っておられます。ならざくろというのは、こうね、薄い幕をこうしきりがあって。
 その向こうに沢山の、ざくろの粒が入ってます。障子一重に小僧千人。私どものいわば周囲にはです、もうそれこそ沢山な難儀な人があると言う事。もしそこに本当に幸せと幸福との境が、こうあるとすんならね、その境の障子を開けたら、向こうの方にはもう難儀な氏子が、もう一杯だと言う事。そう言う事に気付き、そう言う事が分かるように、段々なってくるところから、最近日々のように言うております、この世に合楽を実現して行こう、合楽を現して行こう。
 そういう完成を目指させてもろうて、そこに一つの使命感というか、そういう使命感を持ってです、私どもが前進して行こうと。私達は例えば信心とは悟りだと。今まで私のような不幸せな者はないと思うておったのが、一度心が開けてくると、はあ本当にもう不幸せどころではない、こんな私はおかげを頂いておった。言うなら極楽の自覚というものが出ける。その極楽の自覚を、今皆さんに促して、本当に私はおかげを受けておるという、その自覚が出けたらその自覚をです、今度は周囲に現して行こうと。
 合楽を現すと言う事は、そう言う事なんです。神も助かり氏子も立ち行く道を、そこから広げて行こうという。そういう指名をです、合楽の信奉者一同が神に願われておるのだという考え方が出けて来る時にです、しかもその合楽をです、世の多くの難儀な氏子、まあ大きく言うならば、世界にそういう大きな願いをかけて行くと言う様な、これからそういう合楽の世界が実現して来ると言う様な事を、私は一つの合楽にご縁を頂いた人達の使命感と言った様なものが感じれるくらいな。
 大きな信心にならせて頂いたら、それこそ血が沸き、身が踊るような心が湧いて来ると思う。例えば、昨日のお届けを聞かせて頂いても、本当に熊谷さん辺りの、もう八十にやがてなられるというお婆さんが、もうとにかく合楽を宣伝する、合楽を現すと言う事を思うたら、もう家にじっとしてはおられない。血が沸き肉が踊ってきた。昨日佐田の奥さんの話を聞かせて頂きました。
 一家中でもそのことに話が持ちきって、本気でお役に立たにゃならんと思うたら、昨日はもう朝からもう夕方の晩の11時頃まで、もうその事をずうっと人に伝えねばならない働きが、家の中で起きたと言う事。桜井先生達ご夫婦が、毎日今日はどこに合楽の宣伝に行こうかと。どこにお話に行こうかと、一生懸命な思いをすると、そこに私の話を聞いてもらわねばならない人が、必ず幾人かそこにある。言うなら合楽実現の完成を、それぞれの使命を持っての前進が、今や始まらんとしておる。
 そういうものが自分の心の中に響いてくる時です、それこそ血が沸き肉が踊るような思いで、そのご用に専念させて頂くと言う様な事になって来る。そこの神様の働きをです、十分に感じないはずはない。十分に感じる。いよいよその意欲が燃えてくる。言うならば、神様の言うなら働きがそのようにして、実現してくる。その向こうに神の願いが成就し、氏子の願いが成就するという、神も助かり氏子も立ち行くという、本当の意味においての、合楽実現のおかげが頂かれる。
 そういう皆さん願いを大きく持つことによってです、私は今日十七節からですね。まあ皆さんの場合にはそんな方は一人もあろうとも思われません。神の綱が切れたと言うて落胆したりね。言うなら寂しい思い又は、とても自分たちはそげなおかげ頂ききらんと思う、その思いが既に、神の綱から手を外しておるようなものですから。おかげになるけれどもそれは、どういうおかげかは分からない。
 けれども私が願うておったり、思うておったりする、願い以上の願いが成就するんだという確信を持って、お互いが信心をさせて頂きますと。いわゆるこういう御教えは私どもには必要で無くなって来る。私どもの目の前には、小さい願い事のために終始しておると、それが成就すりゃあ、ああもう有り難い勿体無いですけれども、それが裏目になって来ると、そうにゃ参ったけれどもとても、私どんじゃおかげ頂ききらじゃったと言う様なです、もうそれがおかげの芽を摘めてしまう事になるのです。
 だから皆さんの願いも、なるほど痛い痒いのことにいたるまで、言うならば、牛馬のことにいたるまでと仰るのだから、実意をもって願うことは、願いとさせてもらわなきゃなりませんけれども、それ以上の大きな願い。言うならば、合楽に御神縁を頂いた者の一つの使命感といったようなものをです、皆さんが、感じてくださるようになるところから、信心がいよいよ有り難いものに。
 言うなら、血は沸き、肉が踊るような信心の喜びを感じさせて頂きながら、神様の願い成就、神願御成就のために、挺身することが出ける。そこには、神様の願いが成就するにしたがって、私どもの願いも、また成就するはずである。初めて、神も助かり氏子も立ち行く、いわゆる、合楽顕現のおかげの場がそこから開けて来るのです。
   どうぞ。